どうも、私です。
前回、生存バイアスと凝集性のことを書きました。
では次に、凝集性によって価値観や考え方を統一化することの是非を考えたいと思います。
わかりやすく、「石の上にも三年」や「根性論」でゴリゴリに固めた組織がどういう感じになるのかを考えたいと思います。
メリット
- 忠誠心が高まり、組織の意思決定が早く、強くなる。
- そのため同じことをするのにも安く、早くなるが故に競争に勝ちやすくなる。
- 意思決定者がが優秀、有能であれば全体がその能力の恩恵を受けるため、追従者は優秀でなくともよい。
軍隊や(比較的評価されている)独裁国家、社長や経営者の意志が浸透しているようなワンマン企業はこんな感じですね。
デメリット
- 柔軟性がなくなり硬直化するため、細かな軌道修正が難しくなる。
- 違うこと、組織の持っているフレーム外の新しいことができなくなる。
- 意思決定者が有能でなかった場合、追従者はそこまでの能力しか発揮できない。
これらのデメリットを嫌っているのはフリーランサーによる緩やかなつながりやサークル活動なんかでしょうか。
歴史的な(そして乱暴ですが蓋然的な)話にもっていくと、昭和や平成初期までの日本は終身雇用・年功序列・企業内組合のシナジーも相まって、前者のような独裁的で全体主義的な組織運用に利がありました。そのため石の上にも三年論をかざした組織が競争優位に立ち、勝利する、三年いなくてもいいよという組織は敗北して退場するという淘汰の結果、日本社会は三年論が主流になったんだろうなと考えます。
それをわかっていてやってるなら良いんですが、そんなことを意図的にできるのはそれこそ超一流の指導者くらいなものです。だいたいは「自分の育ってきた環境」が常識だと思うので、今でも数多くのビジネスシーンやビジネスマンでは「石の上にも三年」の価値観が浸透しています。
こう書くとなんか悪く感じる論調ですが、私的にはこれの良し悪しはフラットに考えています。
まず、先ほども述べたとおり会社や組織の意思決定速度、強度を高める効果はあるので、競争力を高めるために必要な側面はあるでしょう。
そしてこの効果は企業の分野に依らず有効かと思います。全員の考えがバラバラな状態より、統一されていた方が意思決定や業務効率が高いですからね。
船頭多くて船山登るということわざもあります。自分の意思や考えを持つのは良いですが、それで必ずしも良い組織ができるわけではなく、それよりも強力な意思決定組織が機能している方が良い時はかなりあります。どちらにも理がある中で、石の上でも三年論を全て捨て去った方が良いというのは、私は短絡的だと思います。
次に実際的な話なのですが、すでにある価値観を覆すのは一朝一夕には難しいというとこです。
実際、現在の日本のビジネスシーンにおいては石の上にも三年論は強固です。それは新卒にとって望むと望まざるとにかかわらず、社内に、そして世間に当然のようにあるものです。それを、その組織の新参者である若者が異を唱えたところで聞き入れてもらえるわけもなく、むしろ敵愾心を抱かせるだけです。
ではどうすれば良いか。簡単です。自分がされたことを忘れず、憎まず、下の世代にはやらないでおこうと誓い、実践することです。
最初はこんな常識おかしいよ、こいつら絶対おかしいよと言っていた人が、3年、5年と過ごすうちにミイラ取りのミイラになることがほとんどです。故に進歩や問題改革は進まない。体制は変えられない。
それを覆すためには初心を忘れずに、自分がやりたかったときにそれをやらせてもらえる上司像を忘れずに、自分がその上司になって下の世代にやらせたいことをやらせてあげる。
これが肝要。これこそが人類や組織が一皮むけるほぼ唯一の方法です。
ただしこれは簡単ではないのです。自分が下の時に苦しかった仕組み、構造、システムはとどのつまり、自分が上に行ったら楽になるためのシステムということです。最初熱湯に浸かって、我慢して我慢してやっとこさぬるま湯に浸かれるとなったとき、下のものと一緒に全員でもう一度熱湯に浸かれますか?
とくに我が日本はやられたら自分の損得抜きにやり返す人の多い文化らしく、全く得がないのに他人の不幸を見るためなら努力を惜しまない、よく言えば団体主義の国です。自分が辛い思いをしていたのに下の世代はそうではないとしたら、綺麗事ではなく我慢できますか?
また、これは実験により統計的に証明されたことらしいのですが、人間はほぼ全ての人が、自分の能力を平均より高く見積もるらしいです。さらに、自分は少数派であり特別な考えや人並外れた美学を持っていると考える生き物らしいです。
例えば上記の話を聞いて「私は違う。志があり、変える意欲がある。私はその他有象無象とは違い、それをするだけの能力も意志もある」と思ったあなた。それは、おそらく他の大多数の人とほぼ同じ感想ですが、それでも自分だけは違うしやり遂げられると言えますか?
と、いうことで締めに入ります。
時代遅れだとされた価値観にも、その合理性はある程度みとめられること。
自分も相手も人間である以上、その価値観は簡単には変えられないこと。
自分の立場によってのメリットデメリットがあるため、立場や時間によってそのありがたみが変わること。
それでも改革を断行できる人間は、自身の利益は捨て、並外れたカリスマを持ち、能力があり、成果をあげているにも関わらず、その改革が成功し”常識”となるまでは外野から罵詈雑言を投げつけられること。それでもその声を無視して成功をつかみ取れるような人は、おそらく通常の感覚の人間ではなく、もはや正気ではないこと。
そうでないほとんどの人間は、大きな潮流には逆らわず、小さな、自分のできる範囲の改革を行った上で、大きなことをしている人には少しだけ協力してあげるというスタンスが賢明であること。
故に、いろいろな価値観や考え方があるのは、良い悪いではなく仕方がないよね!その中でうまくおりあいをつけていこうねか!それでも頑張りたい人はしんどいだろうけど応援しているから頑張ってね!という話でした!
PS、年金は欲しい。けど払いたくない!